府中(東京)の女性

.27

インタビュー

横山永望(ながもち)さんインタビュー

いつもは府中の女性を紹介しているのですが、今日は男性です。
府中かんきょう市民の会、浅間山自然保護会、府中市歩こう協会で活動されている横山さんとは、
2000(平成12)年に女性フォーラム(現:※府中市男女共同参画推進フォーラム)委員として一緒に活動をしました。その後も毎年委員を継続している横山さんに活動されているきっかけや思いをお聞きしました。

※府中市男女共同参画推進フォーラム
1988(昭和63)に第1回府中市女性フォーラム開催
男女を取り巻く問題を解決するための学習や討論の場として
地域の人々が集い、学び、気づく、「きっかけの場」として毎年開催
第16回2002(平成14)年から「府中市男女共同参画推進フォーラム」と改称

藤田 横山さん、お暑い中をありがとうございます。
 さっそくなんですが、お年を伺ってもいいですか?

横山 いいですよ。今年ちょうど80です。

藤田 えええ?そうなんですか!とても見えません。
 それで、ご出身は?

横山 高知の小高坂(こだかさ)です。高知城の近くに住んでいました。
 藤田さん、高知に出かけたことはありますか?

藤田 はい、20代の頃、旅行しました。

横山 城内に山内一豊の妻の像がたっているのですが、ご存知でしたか?

藤田 え?知らないですが、山内一豊の像はないんですか?

横山 ええ(笑)ないですね、彼女だけです(笑)

藤田 山内一豊の妻、千代さんは親から託されたお金を使わずに夫が見つけてきた名馬を買い、それがきっかけとなって一豊が出世したというような話を講談で聞いたことがあります。
 彼女の話はそれだけではないでしょうが、像までたっているのは内助の功の域を超えていたんでしょうか?

横山 そこのところはよく分からないです(笑)

藤田 そうですか(笑)
 高知にいらした頃のお話を聞かせてください。お父様はどんなお仕事されていたんですか?

横山 父は10年間アメリカで造園・園芸業の修行を積んで、日本に戻ってからアメリカ式の造園・園芸業を営んでました。高知城に洋式庭園を造ったと聞いています。
 でも、私が小学校1年生の時に東京の調布嶺町(現:田園調布)に引っ越しました。あの頃は東京府東京市でしたね。
 ※多摩川温室村っていうのがあって、そこにはガラス張りの温室がたくさんあったんですよ。父はそこでカーネーション等の栽培もしていました。当時はまだまだ洋花は流行していなくて、洋花っていうとカーネーションかバラでした。

※多摩川温室村
多摩川の沿岸は温暖で水が豊富。また土がカーネーションなどの栽培に向いている上、この地域に土地を所有していた大地主に理解があったことが重なり、大正時代から次々と人が集まって温室村と呼ばれる集団が形成された
この温室村の特徴は、新しいアメリカ式の鉄骨やガラスを使った温室を建設し
最新の栽培技術をもって品種の改良などを行ったことである
ここで栽培されるカーネーションの量は昭和の初め頃には全国で生産されるカーネーションの40%以上にもなったが、太平洋戦争時に敵に見つかるとの理由で取り壊された

藤田 お父様は明治生まれですよね。当時アメリカに行くのは大変なことではなかったですか。

横山 そうですね。ただ、どうしてアメリカへ出かけたのかは分からないですね。
 その父が、私が10歳の時、心臓発作で急死したんです。

藤田 ええ!それは・・・東京に来てまだ3,4年ですよね。その時ご家族は?

横山 母と妹二人と弟と私の5人です。
 父の死後、母は花屋を経営したんですが大変な苦労をしてました。下の妹をまだおぶってた時ですから。
 母はいごっそう(土佐弁で快男児、気骨のある男を意味する)の女性版のような人だったですから頑張っていましたね。
 私は母を助けたいと思う気持が大きかったので新聞配達などをしました。そして小学校卒業と同時に同盟通信社(戦後分社した後、時事通信社)に勤めたんです。勉強は続けたかったので、夜間に学校へ通い、府立工藝学校を卒業しました。

藤田 お務めは時事通信社ですか!ニュースなどを配信する会社ですよね。

横山 そうです。

藤田 戦争中は大変だったのでは?

横山 仕事につけない人が大勢いたので、仕事があるだけでありがたかった。
 ただ当時の記事は陸軍省・海軍省・内閣情報局の3か所の検閲を受けました。それが通らないと記事にはできないし、言うことを聞かないとつぶされる危機感がありましたね。

藤田 今、日本人は戦争被害者だっただけでなく、戦争加害者だったという意識をもたなくてはといわれるようになっていますね。

横山 確かに戦争に対して総括をしていない。

藤田 それは当時戦争に突き進んでいった軍人や政治家だけでなく、報道に関わった人やそして一般の人もなぜ戦争を援護したかを調べ、戦争に突き進まないようにするにはどうしたらいいかを考えなければならないと思います。

横山 それに、戦争のことをもっと若い人たちに知ってもらう必要がありますね。

藤田 そうだと思います。
 話を戻しますが、女性問題について府中で活動されるようになったのは、お母様が女手一つで育てくださったことが原点でしょうか。

横山 そうですね。女性が仕事をする、経営するのは大変な時代でしたから。
 母は「女性は手に職をもっていないと苦労する。手に職もった人と結婚しなさいね」と口癖のように言ってました。

藤田 あのう、奥さまは?

横山 はい、まあ、そういう理由から結婚したのではないですが(笑)、学校の先生でした。妻は仕事を続けましたし、子どもは二人とも女の子なので、女性に関わる問題はずーっと見続けてきました。

藤田 家事などは一緒にされたんですか?

横山 私は仕事で遅く帰るので平日はとても無理だったですが、休みの日には洗濯ものを洗ったり干したりなど手伝ってました。
 あの当時、家事をする男の人は皆無だったから「それは奥さんを甘やかし過ぎだ」と言う人がいましたね。
 自分が新聞を読みたいっと思ったら、相手だって読みたいだろうって。そういうことに気づけたのは母の苦労を感じて育ったことが大きいと思いますね。

藤田 府中にはいつ引っ越してこられましたか?

横山 1962(昭和37)年です。

藤田 いつ頃から府中で女性問題の活動をされたんですか?

横山 今からちょうど20年前退職したときです。それまでは仕事、仕事で地域にお世話になっていても何もしていなかったので、退職を機に地域活動をしようと思っていましたら、市報に女性フォーラム委員の募集があったのです。それからずっと委員を続けています。

藤田 えー20年にもなるんですか!フォーラム委員を女性でも20年続けている人はいないですよね。男性は横山さんお一人っていう年もたくさんあったと思いますけれど・・・

横山 そうですね。ただ運営協議会(府中市立女性会館〈仮称〉・府中市女性センター事業運営協議会)の委員をしたとき一年だけは休みしましたけれど。

藤田 そういえば、2000(平成12)年のフォーラムでご一緒しましたよね。
あの時は女性議会(女性だけで模擬市議会を開催)しようなんて盛り上がりましたね。

横山 そうだったね。
 府中には女性議会開催と女性史発刊の2本の柱が必要だって思ってました。めでたく女性史発刊はできてよかったね。私も女性史編さんに関わりたかったけれど、妻の体調が悪くて残念ながら参加できなかった。

藤田 ありがとうございます。奥さまのお加減が悪かったのですか、それは大変でした。
 長期間フォーラムに関わってこられて、今どういうふうに思われていますか?

横山 毎年、毎回みんな頑張っているのだけれど、なかなか若い人たちが参加してくれないことと、せっかくフォーラムを開催してもそこから発展していかないところが歯がゆいね。
 せっかく勉強したのだから、それを活かして次のステップにしてほしいって思っている。
 フォーラム委員から議員になる人を出そうって話をするんだけれど・・・

藤田 はい、そういうお話は私も聞きました(笑)

横山 そう?あの時も話したかな(笑)
そういえば、今の市議会で自民党系は女性議員をだしていないんだよね。

藤田 はい。それに民主党系もですね。

横山 なぜかね。半分は女性って思う。でも、まあ半分になったら女性の方が強いかな(笑)

藤田 私は男女どちらも3割をきらないっていう法律が必要だって思います。

横山 そうだね。

藤田 最後に今の若い女性たちに向けてメッセージをお願いします。

横山 そうね、社会にどういう形にしろ世話になっているのだから自分も何らかの形で還元する気持ちをもってほしい。
 それに、これだけ不景気だと就職などでどうしても女性が不利となる。不利とならないようにするには女性の議員数が必要。人材が必要。そういう意識をもつ人が育っていって欲しい。

藤田 これからも府中の女性へアドバイスをお願いしたいと思います。
今日はありがとうございました。


プロフィール

fujita

Author:fujita
fujita emi

2005年9月府中市女性史編さん実行委員(2008年3月発刊)となったことがきっかけとなって今回のブログを始めることとなった。
府中の女性の仕事や活動をいろいろ紹介していきたい。

趣味
山歩き
芸術鑑賞(美術、映画、観劇)
読書




最新トラックバック



検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

RSSフィード 管理者ページ