府中(東京)の女性

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インタビュー

小西厚子さんインタビュー

今日は府中市で女性に関する活動をされている小西厚子さんです。

藤田 お生まれはどこですか?

小西 生まれも育ちも府中です。府中町の番場で生まれて育ったのは八幡宿。

藤田 そうでしたか。生まれも育ちも府中だという人にはなかなか出会えません、貴重です (笑)
 それでごきょうだいは?

小西 女、女、女、男、女 5人きょうだいの長女です。

藤田 確かお父様は競馬関係の仕事をされていたと聞いたことがあるのですが・・・

小西 ええ、父は騎手をしていたのです。その後、調教師をしていました。

藤田 そうなんですか。

小西 ええ、1908(明治41)年生まれの父は岩手県盛岡出身で農家の次男坊でした。20歳のとき徴兵検査に落っこちて、一念発起騎手になるって思ったらしいです。
 それで、1933(昭和8)年に競馬場が目黒から府中に移ったと同時に府中に引っ越してきて結婚して私が生まれたんです。

藤田 府中に競馬場ができるのは一部の反対はあったけれど、大半は賛成であの広さの敷地がすぐにまとまって提供できたと聞いていますが・・・

小西 そうそう、聞いたことがありますね。それでね、父は京都とか地方の競馬へ出張するとき、私を連れていったんですよ(笑)

藤田 ええ?子ども連れで出張へ行かれたんですか?

小西 ええ、私は3つの頃から小学校へあがるまでついて行ってました(笑)
 父は人づきあいがあまり上手ではなく、また仲間の人たちがする碁、将棋、マージャンなどもしなかったから、私の面倒を見るということで付き合いをさけていたのだと思います。朝起きると父はもう出かけていていないけれど、枕もとには本やぬり絵などが置いてあって、それを読んだり塗ったりして父を待っていた記憶があります。

藤田 一人でお父様を待ってらしたのですか?他に遊ぶ子もいなくて寂しくなかったですか?

小西 いえ思わなかった(笑)仕事から戻ってくれば大好きな父とずっと一緒にいられたから。
 父はサラリーマンと違うから仕事の合間に多摩川へ妹たちや弟を連れていって投網したりしてました。

藤田 子煩悩な方だったんですね。

小西 優しい父でした。

藤田 小西さんはどんなお子さんでしたか?

小西 私は小さい頃から、はっきり意見を言う子でした。母は自分の思うことを父にはっきりと言っていましたから、私もそれが当たり前だと思っていたのです(笑)
 私が小学6年生の時、担任の先生から「妥協性がない」と通信簿に書かれました。意味が分からなくて母に「妥協性がない」ってどういうことかと尋ねたら、人と合わせたりするということに欠けると説明されて、なるほどって思いました。

藤田 6年生だとその時ショックでしたでしょう。

小西 いえ、本当にそうだと思いましたから(笑)
 中学校は私立の桐朋に行きましたが、ここでもホームルームの時間にはっきり自分の意見を言ってました。でも、はっきり意見は言わないほうがいいと思う雰囲気を感じて抑えるようになったら、先生に「小西さん最近大人しくなったわね」って言われたりして(笑)

藤田 他に子どものころの思い出は?

小西 戦後すぐの小学校4,5年生の2年間ほど、競馬場の厩舎に住んでいたことがあったんです。
 そのころ有名な作家さん、社長さん、代議士さんがみえてたんですが、その人たちがお妾さんを連れてきてました。嫌でしたね。奥さんがいるのにおかしいって子ども心に思ったのです。そのとき母から家が貧しいため芸者さんになってお妾さんにならなくてはならなかった人もいると聞かされて、貧富の差で人生が違うんだ。そういう世の中なんだって思いましたね。
 そういうものを見たことは今までずっと引きずりました。

藤田 どういうふうにでしょうか?

小西 社会をどうにかしなくてはならない。女性も自活するべきだと思いました。
 それで、なるのなら私は裁判官になりたいって思ったのです。
 だから法学部のある大学を受けたかったのですが、母に反対されました。母は医者の家庭だったので医学部か、母の行きたかった日本女子大にというのです。父は「厚子の好きにさせてやったら」って言ってくれたのですが、母がダメって。母がダメなものはダメでした(笑)

藤田 え?自己主張をするほうではなかったのですか?

小西 ええ(笑)、でも母には逆らえなかった。それに私が父と母をもめさせるって言われたから。
 ただ、人の生命を預かる医者は私には荷が重すぎるので日本女子大の文学部史学科へ。
 なぜ史学科かというと私は1945(昭和20)年3月に空襲を見たのです。どこに落ちたのかはわからないけれど、真っ赤に燃えている空と雨あられと降っている爆弾の下にはどれだけの人がいるのだろう。ひどい戦争がなぜ起こるんだろうってそのとき疑問をもちましたね。
 それが生涯ずっと私のテーマになりました。

藤田 ご自分の人生を小さい頃から決められたのですね。それは凄いですね。

小西 いえ(笑)そのときは具体的に何をするかは分からなかったですよ(笑)
 大学卒業後、大学に残り特別研究生になって1週間に2日、研究室を手伝ってましたら、富士見ヶ丘高校で教えていた友だちから「腹膜炎になって入院したから私の代わりをしてほしい」との連絡が入り、急きょ手伝いに。世界史を教えました。その子たちは3年生で、担任も務めました。
 学校側から依頼があり、その後3年間、高校教師をしましたけれど楽しかったですね。いい経験となりました。ただ大学院に入って勉強したいと思っていたのでドイツ語の勉強はしっかりやってましたよ(笑)

藤田 高校の先生されていたのですね!仕事と勉強を両立するのは大変だったと思いますが・・

小西 自分がしたいと思うことがいったん決まったら、与えられたことに最善を尽くす。それに勉強が好きだから苦ではなかったですね(笑)
 大学院は慶応を受けました。「4年間も高校教師しているのに、今から大学院に入らなくても」と言われたりもしましたが、合格してドイツの政治思想史、ミリタリズム(軍国主義)を研究することにしました。「政治学専攻博士課程最初の女子学生だから頑張りなさい」って伊藤政寛先生に言われました。そして修了。
 でも博士課程にいた5人のうち私だけが就職先が決まらなかったですね。

藤田 もちろんあとの人は男性ですよね。

小西 そうです。
 私は母と一緒に三重県の方まで就職活動に出かけたら、そこの大学では夜間の学部があって「女の方は無理でしょう」って言われて。
 でも、慶応の指導教授多田真鋤先生から帝京大学に推薦されたんです。1969(昭和44)年から法学部で非常勤講師として主に西洋政治思想史を教えました。
 あの当時、法学部には学生運動をやっていた人たちが結構いて、就職先が決まらないので大学に再入学してきてました。そういう人たちはハッキリものを言うから面白かったですよ。
 日本の教育は小学校から大学までただただ先生の話を聞くって授業でしょう。良くないわね(笑)私は前にも話したように授業中よく質問をしたのですが、それを教師は嫌がる。そういう子は勉強が好きで熱心なんですよね。向学心を摘み取るものだと思います。

藤田 おっしゃるとおりです。実社会でもそうですよね。いつまでたっても変わらないですね。活発に意見を出し合うことでお互いに理解できて、新しい考えが生み出されたりするのにと思います。

小西 そうですね。それから、1971(昭和46)年帝京大に医学部が設立されたとき、一般教養の専任講師をすることになりました。女性で初めての専任講師でした。
 
藤田 ということはその時点で帝京大学では女性講師がお一人だったということですね。

小西 ええ、でも非常勤講師をされている女性はいました。

藤田 お話を変えますが、府中市でいろいろな委員やオンブズパーソンなどされ、現在も男女共同参画推進懇談会で委員長をなさってますが、最初の関わりはなんだったのでしょうか?

小西 実は1985(昭和60)年から※パイロットクラブに所属していましたから働きながら社会奉仕するということが大切だと思っていました。
 それで1993(平成5)年に府中市女性センターができることを知って、運営協議会(府中市立女性会館〈仮称〉・府中市女性センター事業運営協議会)の委員に応募したのです。当時、私は帝京大の助教授でした。
 しばらくして市の担当課長から運営協議会の会長をして欲しいと連絡があり、それを受けたのです。あとから分かったのですがそれまでに府中では女性活動が活発にされていたので、全く活動していない知らない人が会長になり、みなさん驚いたと思います。
 それで、運営協議会の会議が始まったら途中で委員の人たちがどんどん帰ってしまうんです。で、私が「決めごとがたくさんあるので議決権を委ねてから早退してほしい。ルールにそって行動して欲しい」と言いました。それも反発をかいました。でも、やることだけはやらなくてはと思い実行しました(笑)

藤田 そんなことがあったのですね。それまでにいろいろ経験されてきたからこそ出来ることだと思います。

小西 府中は10年前に男女共同参画都市宣言を行いましたが、条例は作っていないんですよ。男女共同(平等)参画条例を作って推進力をもたなくては、なかなか女性が平等参画できる社会が実現しないと思います。
 ですから条例ができるように、これからも市民や市に働きかけていきたいと思っています。

藤田 女性がいろんな分野で意志決定できる立場になって活躍できるようになることは必要だと思います。そのパワーで頑張っていただきたいと思います。
 今日はありがとうございました。 

※パイロットクラブ
1921(㍽10)年アメリカジョージア州メイコンで働く女性が社会奉仕を始めたのが最初でそれが世界中に広まった
日本でも1950(㍼25)年から活動を開始、現在全国に支部がある



プロフィール

fujita

Author:fujita
fujita emi

2005年9月府中市女性史編さん実行委員(2008年3月発刊)となったことがきっかけとなって今回のブログを始めることとなった。
府中の女性の仕事や活動をいろいろ紹介していきたい。

趣味
山歩き
芸術鑑賞(美術、映画、観劇)
読書




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