府中(東京)の女性

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インタビュー

横山永望(ながもち)さんインタビュー

いつもは府中の女性を紹介しているのですが、今日は男性です。
府中かんきょう市民の会、浅間山自然保護会、府中市歩こう協会で活動されている横山さんとは、
2000(平成12)年に女性フォーラム(現:※府中市男女共同参画推進フォーラム)委員として一緒に活動をしました。その後も毎年委員を継続している横山さんに活動されているきっかけや思いをお聞きしました。

※府中市男女共同参画推進フォーラム
1988(昭和63)に第1回府中市女性フォーラム開催
男女を取り巻く問題を解決するための学習や討論の場として
地域の人々が集い、学び、気づく、「きっかけの場」として毎年開催
第16回2002(平成14)年から「府中市男女共同参画推進フォーラム」と改称

藤田 横山さん、お暑い中をありがとうございます。
 さっそくなんですが、お年を伺ってもいいですか?

横山 いいですよ。今年ちょうど80です。

藤田 えええ?そうなんですか!とても見えません。
 それで、ご出身は?

横山 高知の小高坂(こだかさ)です。高知城の近くに住んでいました。
 藤田さん、高知に出かけたことはありますか?

藤田 はい、20代の頃、旅行しました。

横山 城内に山内一豊の妻の像がたっているのですが、ご存知でしたか?

藤田 え?知らないですが、山内一豊の像はないんですか?

横山 ええ(笑)ないですね、彼女だけです(笑)

藤田 山内一豊の妻、千代さんは親から託されたお金を使わずに夫が見つけてきた名馬を買い、それがきっかけとなって一豊が出世したというような話を講談で聞いたことがあります。
 彼女の話はそれだけではないでしょうが、像までたっているのは内助の功の域を超えていたんでしょうか?

横山 そこのところはよく分からないです(笑)

藤田 そうですか(笑)
 高知にいらした頃のお話を聞かせてください。お父様はどんなお仕事されていたんですか?

横山 父は10年間アメリカで造園・園芸業の修行を積んで、日本に戻ってからアメリカ式の造園・園芸業を営んでました。高知城に洋式庭園を造ったと聞いています。
 でも、私が小学校1年生の時に東京の調布嶺町(現:田園調布)に引っ越しました。あの頃は東京府東京市でしたね。
 ※多摩川温室村っていうのがあって、そこにはガラス張りの温室がたくさんあったんですよ。父はそこでカーネーション等の栽培もしていました。当時はまだまだ洋花は流行していなくて、洋花っていうとカーネーションかバラでした。

※多摩川温室村
多摩川の沿岸は温暖で水が豊富。また土がカーネーションなどの栽培に向いている上、この地域に土地を所有していた大地主に理解があったことが重なり、大正時代から次々と人が集まって温室村と呼ばれる集団が形成された
この温室村の特徴は、新しいアメリカ式の鉄骨やガラスを使った温室を建設し
最新の栽培技術をもって品種の改良などを行ったことである
ここで栽培されるカーネーションの量は昭和の初め頃には全国で生産されるカーネーションの40%以上にもなったが、太平洋戦争時に敵に見つかるとの理由で取り壊された

藤田 お父様は明治生まれですよね。当時アメリカに行くのは大変なことではなかったですか。

横山 そうですね。ただ、どうしてアメリカへ出かけたのかは分からないですね。
 その父が、私が10歳の時、心臓発作で急死したんです。

藤田 ええ!それは・・・東京に来てまだ3,4年ですよね。その時ご家族は?

横山 母と妹二人と弟と私の5人です。
 父の死後、母は花屋を経営したんですが大変な苦労をしてました。下の妹をまだおぶってた時ですから。
 母はいごっそう(土佐弁で快男児、気骨のある男を意味する)の女性版のような人だったですから頑張っていましたね。
 私は母を助けたいと思う気持が大きかったので新聞配達などをしました。そして小学校卒業と同時に同盟通信社(戦後分社した後、時事通信社)に勤めたんです。勉強は続けたかったので、夜間に学校へ通い、府立工藝学校を卒業しました。

藤田 お務めは時事通信社ですか!ニュースなどを配信する会社ですよね。

横山 そうです。

藤田 戦争中は大変だったのでは?

横山 仕事につけない人が大勢いたので、仕事があるだけでありがたかった。
 ただ当時の記事は陸軍省・海軍省・内閣情報局の3か所の検閲を受けました。それが通らないと記事にはできないし、言うことを聞かないとつぶされる危機感がありましたね。

藤田 今、日本人は戦争被害者だっただけでなく、戦争加害者だったという意識をもたなくてはといわれるようになっていますね。

横山 確かに戦争に対して総括をしていない。

藤田 それは当時戦争に突き進んでいった軍人や政治家だけでなく、報道に関わった人やそして一般の人もなぜ戦争を援護したかを調べ、戦争に突き進まないようにするにはどうしたらいいかを考えなければならないと思います。

横山 それに、戦争のことをもっと若い人たちに知ってもらう必要がありますね。

藤田 そうだと思います。
 話を戻しますが、女性問題について府中で活動されるようになったのは、お母様が女手一つで育てくださったことが原点でしょうか。

横山 そうですね。女性が仕事をする、経営するのは大変な時代でしたから。
 母は「女性は手に職をもっていないと苦労する。手に職もった人と結婚しなさいね」と口癖のように言ってました。

藤田 あのう、奥さまは?

横山 はい、まあ、そういう理由から結婚したのではないですが(笑)、学校の先生でした。妻は仕事を続けましたし、子どもは二人とも女の子なので、女性に関わる問題はずーっと見続けてきました。

藤田 家事などは一緒にされたんですか?

横山 私は仕事で遅く帰るので平日はとても無理だったですが、休みの日には洗濯ものを洗ったり干したりなど手伝ってました。
 あの当時、家事をする男の人は皆無だったから「それは奥さんを甘やかし過ぎだ」と言う人がいましたね。
 自分が新聞を読みたいっと思ったら、相手だって読みたいだろうって。そういうことに気づけたのは母の苦労を感じて育ったことが大きいと思いますね。

藤田 府中にはいつ引っ越してこられましたか?

横山 1962(昭和37)年です。

藤田 いつ頃から府中で女性問題の活動をされたんですか?

横山 今からちょうど20年前退職したときです。それまでは仕事、仕事で地域にお世話になっていても何もしていなかったので、退職を機に地域活動をしようと思っていましたら、市報に女性フォーラム委員の募集があったのです。それからずっと委員を続けています。

藤田 えー20年にもなるんですか!フォーラム委員を女性でも20年続けている人はいないですよね。男性は横山さんお一人っていう年もたくさんあったと思いますけれど・・・

横山 そうですね。ただ運営協議会(府中市立女性会館〈仮称〉・府中市女性センター事業運営協議会)の委員をしたとき一年だけは休みしましたけれど。

藤田 そういえば、2000(平成12)年のフォーラムでご一緒しましたよね。
あの時は女性議会(女性だけで模擬市議会を開催)しようなんて盛り上がりましたね。

横山 そうだったね。
 府中には女性議会開催と女性史発刊の2本の柱が必要だって思ってました。めでたく女性史発刊はできてよかったね。私も女性史編さんに関わりたかったけれど、妻の体調が悪くて残念ながら参加できなかった。

藤田 ありがとうございます。奥さまのお加減が悪かったのですか、それは大変でした。
 長期間フォーラムに関わってこられて、今どういうふうに思われていますか?

横山 毎年、毎回みんな頑張っているのだけれど、なかなか若い人たちが参加してくれないことと、せっかくフォーラムを開催してもそこから発展していかないところが歯がゆいね。
 せっかく勉強したのだから、それを活かして次のステップにしてほしいって思っている。
 フォーラム委員から議員になる人を出そうって話をするんだけれど・・・

藤田 はい、そういうお話は私も聞きました(笑)

横山 そう?あの時も話したかな(笑)
そういえば、今の市議会で自民党系は女性議員をだしていないんだよね。

藤田 はい。それに民主党系もですね。

横山 なぜかね。半分は女性って思う。でも、まあ半分になったら女性の方が強いかな(笑)

藤田 私は男女どちらも3割をきらないっていう法律が必要だって思います。

横山 そうだね。

藤田 最後に今の若い女性たちに向けてメッセージをお願いします。

横山 そうね、社会にどういう形にしろ世話になっているのだから自分も何らかの形で還元する気持ちをもってほしい。
 それに、これだけ不景気だと就職などでどうしても女性が不利となる。不利とならないようにするには女性の議員数が必要。人材が必要。そういう意識をもつ人が育っていって欲しい。

藤田 これからも府中の女性へアドバイスをお願いしたいと思います。
今日はありがとうございました。


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インタビュー

小西厚子さんインタビュー

今日は府中市で女性に関する活動をされている小西厚子さんです。

藤田 お生まれはどこですか?

小西 生まれも育ちも府中です。府中町の番場で生まれて育ったのは八幡宿。

藤田 そうでしたか。生まれも育ちも府中だという人にはなかなか出会えません、貴重です (笑)
 それでごきょうだいは?

小西 女、女、女、男、女 5人きょうだいの長女です。

藤田 確かお父様は競馬関係の仕事をされていたと聞いたことがあるのですが・・・

小西 ええ、父は騎手をしていたのです。その後、調教師をしていました。

藤田 そうなんですか。

小西 ええ、1908(明治41)年生まれの父は岩手県盛岡出身で農家の次男坊でした。20歳のとき徴兵検査に落っこちて、一念発起騎手になるって思ったらしいです。
 それで、1933(昭和8)年に競馬場が目黒から府中に移ったと同時に府中に引っ越してきて結婚して私が生まれたんです。

藤田 府中に競馬場ができるのは一部の反対はあったけれど、大半は賛成であの広さの敷地がすぐにまとまって提供できたと聞いていますが・・・

小西 そうそう、聞いたことがありますね。それでね、父は京都とか地方の競馬へ出張するとき、私を連れていったんですよ(笑)

藤田 ええ?子ども連れで出張へ行かれたんですか?

小西 ええ、私は3つの頃から小学校へあがるまでついて行ってました(笑)
 父は人づきあいがあまり上手ではなく、また仲間の人たちがする碁、将棋、マージャンなどもしなかったから、私の面倒を見るということで付き合いをさけていたのだと思います。朝起きると父はもう出かけていていないけれど、枕もとには本やぬり絵などが置いてあって、それを読んだり塗ったりして父を待っていた記憶があります。

藤田 一人でお父様を待ってらしたのですか?他に遊ぶ子もいなくて寂しくなかったですか?

小西 いえ思わなかった(笑)仕事から戻ってくれば大好きな父とずっと一緒にいられたから。
 父はサラリーマンと違うから仕事の合間に多摩川へ妹たちや弟を連れていって投網したりしてました。

藤田 子煩悩な方だったんですね。

小西 優しい父でした。

藤田 小西さんはどんなお子さんでしたか?

小西 私は小さい頃から、はっきり意見を言う子でした。母は自分の思うことを父にはっきりと言っていましたから、私もそれが当たり前だと思っていたのです(笑)
 私が小学6年生の時、担任の先生から「妥協性がない」と通信簿に書かれました。意味が分からなくて母に「妥協性がない」ってどういうことかと尋ねたら、人と合わせたりするということに欠けると説明されて、なるほどって思いました。

藤田 6年生だとその時ショックでしたでしょう。

小西 いえ、本当にそうだと思いましたから(笑)
 中学校は私立の桐朋に行きましたが、ここでもホームルームの時間にはっきり自分の意見を言ってました。でも、はっきり意見は言わないほうがいいと思う雰囲気を感じて抑えるようになったら、先生に「小西さん最近大人しくなったわね」って言われたりして(笑)

藤田 他に子どものころの思い出は?

小西 戦後すぐの小学校4,5年生の2年間ほど、競馬場の厩舎に住んでいたことがあったんです。
 そのころ有名な作家さん、社長さん、代議士さんがみえてたんですが、その人たちがお妾さんを連れてきてました。嫌でしたね。奥さんがいるのにおかしいって子ども心に思ったのです。そのとき母から家が貧しいため芸者さんになってお妾さんにならなくてはならなかった人もいると聞かされて、貧富の差で人生が違うんだ。そういう世の中なんだって思いましたね。
 そういうものを見たことは今までずっと引きずりました。

藤田 どういうふうにでしょうか?

小西 社会をどうにかしなくてはならない。女性も自活するべきだと思いました。
 それで、なるのなら私は裁判官になりたいって思ったのです。
 だから法学部のある大学を受けたかったのですが、母に反対されました。母は医者の家庭だったので医学部か、母の行きたかった日本女子大にというのです。父は「厚子の好きにさせてやったら」って言ってくれたのですが、母がダメって。母がダメなものはダメでした(笑)

藤田 え?自己主張をするほうではなかったのですか?

小西 ええ(笑)、でも母には逆らえなかった。それに私が父と母をもめさせるって言われたから。
 ただ、人の生命を預かる医者は私には荷が重すぎるので日本女子大の文学部史学科へ。
 なぜ史学科かというと私は1945(昭和20)年3月に空襲を見たのです。どこに落ちたのかはわからないけれど、真っ赤に燃えている空と雨あられと降っている爆弾の下にはどれだけの人がいるのだろう。ひどい戦争がなぜ起こるんだろうってそのとき疑問をもちましたね。
 それが生涯ずっと私のテーマになりました。

藤田 ご自分の人生を小さい頃から決められたのですね。それは凄いですね。

小西 いえ(笑)そのときは具体的に何をするかは分からなかったですよ(笑)
 大学卒業後、大学に残り特別研究生になって1週間に2日、研究室を手伝ってましたら、富士見ヶ丘高校で教えていた友だちから「腹膜炎になって入院したから私の代わりをしてほしい」との連絡が入り、急きょ手伝いに。世界史を教えました。その子たちは3年生で、担任も務めました。
 学校側から依頼があり、その後3年間、高校教師をしましたけれど楽しかったですね。いい経験となりました。ただ大学院に入って勉強したいと思っていたのでドイツ語の勉強はしっかりやってましたよ(笑)

藤田 高校の先生されていたのですね!仕事と勉強を両立するのは大変だったと思いますが・・

小西 自分がしたいと思うことがいったん決まったら、与えられたことに最善を尽くす。それに勉強が好きだから苦ではなかったですね(笑)
 大学院は慶応を受けました。「4年間も高校教師しているのに、今から大学院に入らなくても」と言われたりもしましたが、合格してドイツの政治思想史、ミリタリズム(軍国主義)を研究することにしました。「政治学専攻博士課程最初の女子学生だから頑張りなさい」って伊藤政寛先生に言われました。そして修了。
 でも博士課程にいた5人のうち私だけが就職先が決まらなかったですね。

藤田 もちろんあとの人は男性ですよね。

小西 そうです。
 私は母と一緒に三重県の方まで就職活動に出かけたら、そこの大学では夜間の学部があって「女の方は無理でしょう」って言われて。
 でも、慶応の指導教授多田真鋤先生から帝京大学に推薦されたんです。1969(昭和44)年から法学部で非常勤講師として主に西洋政治思想史を教えました。
 あの当時、法学部には学生運動をやっていた人たちが結構いて、就職先が決まらないので大学に再入学してきてました。そういう人たちはハッキリものを言うから面白かったですよ。
 日本の教育は小学校から大学までただただ先生の話を聞くって授業でしょう。良くないわね(笑)私は前にも話したように授業中よく質問をしたのですが、それを教師は嫌がる。そういう子は勉強が好きで熱心なんですよね。向学心を摘み取るものだと思います。

藤田 おっしゃるとおりです。実社会でもそうですよね。いつまでたっても変わらないですね。活発に意見を出し合うことでお互いに理解できて、新しい考えが生み出されたりするのにと思います。

小西 そうですね。それから、1971(昭和46)年帝京大に医学部が設立されたとき、一般教養の専任講師をすることになりました。女性で初めての専任講師でした。
 
藤田 ということはその時点で帝京大学では女性講師がお一人だったということですね。

小西 ええ、でも非常勤講師をされている女性はいました。

藤田 お話を変えますが、府中市でいろいろな委員やオンブズパーソンなどされ、現在も男女共同参画推進懇談会で委員長をなさってますが、最初の関わりはなんだったのでしょうか?

小西 実は1985(昭和60)年から※パイロットクラブに所属していましたから働きながら社会奉仕するということが大切だと思っていました。
 それで1993(平成5)年に府中市女性センターができることを知って、運営協議会(府中市立女性会館〈仮称〉・府中市女性センター事業運営協議会)の委員に応募したのです。当時、私は帝京大の助教授でした。
 しばらくして市の担当課長から運営協議会の会長をして欲しいと連絡があり、それを受けたのです。あとから分かったのですがそれまでに府中では女性活動が活発にされていたので、全く活動していない知らない人が会長になり、みなさん驚いたと思います。
 それで、運営協議会の会議が始まったら途中で委員の人たちがどんどん帰ってしまうんです。で、私が「決めごとがたくさんあるので議決権を委ねてから早退してほしい。ルールにそって行動して欲しい」と言いました。それも反発をかいました。でも、やることだけはやらなくてはと思い実行しました(笑)

藤田 そんなことがあったのですね。それまでにいろいろ経験されてきたからこそ出来ることだと思います。

小西 府中は10年前に男女共同参画都市宣言を行いましたが、条例は作っていないんですよ。男女共同(平等)参画条例を作って推進力をもたなくては、なかなか女性が平等参画できる社会が実現しないと思います。
 ですから条例ができるように、これからも市民や市に働きかけていきたいと思っています。

藤田 女性がいろんな分野で意志決定できる立場になって活躍できるようになることは必要だと思います。そのパワーで頑張っていただきたいと思います。
 今日はありがとうございました。 

※パイロットクラブ
1921(㍽10)年アメリカジョージア州メイコンで働く女性が社会奉仕を始めたのが最初でそれが世界中に広まった
日本でも1950(㍼25)年から活動を開始、現在全国に支部がある



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インタビュー

E・Tさんインタビュー


今回は66歳まで現役で働き、70歳半ばの現在も太極拳指導などいろんな活動されているE・Tさんのお話を伺いました。E・Tさんの意向により名前表示をイニシャルとしました。

藤田 ご出身は

E・T 青森です。きょうだいは8人。私は上から3番目で下の弟、妹たちの世話をしました。
 父は鍛冶屋で刃物や農具などを作っていたのですが、自分の作るものに手抜きはせず、仕事に誇りをもっていました。
 母は子どもが8人もいるのに、学校の費用を工面してくれて、私たちを上の学校に行かせてくれました。周りには上の学校へ行ける人はほとんどいなかった時代でしたから、今思うとほんとうにありがたく感じます。

藤田 家で、男の子だから女の子だからというような差別を感じたことはありましたか?

E・T そうですね、兄は跡取りなので大事にされていましたが、その分、厳しくもされていました。きょうだいはそろって食事してましたし、男女差別的なことは、家では記憶にないですね。
 そういえば、父のお膳はみんなと違っていたので弟は文句を言ってましたが、父は8人の子どもを養ってくれているのだから当然だと私は思ってました。

藤田 何年か前にE・Tさんの妹さんの個展に出かけたことがあります。色彩豊かな絵だったという印象があります。E・Tさんも色彩に対しての感覚が鋭いように感じますが・・・

E・T 展覧会にいらしてくださったのですね。どうもありがとうございます。私は姉の絵も大好きです。
 そういえば戦時中は色彩のない時代だったので、小学生だった私は6色ずつにまとめてある刺しゅう糸を3つに編んで引出しに入れていて、出して見るのが楽しみでした。組み合わせを変えるとまた違った色合いになって。何度も引出しをあけて眺めていました。その後もデッサンは好きでよく描いていました。
 そうそう、食後、兄がみんなを集めてそれぞれモデルになってデッサンを描いていたのを思い出しました。楽しい時間でした。

藤田 府中へはいつごろ来られたのですか?

E・T 結婚を機に来ました。夫が府中だったものですから。

藤田 では、夫さんのご両親と一緒に住まわれたのですか?

E・T いえ、別に住みました。32歳の時、仕事をはじめましたので、3人の子どもたちを府中市立の北保育所に預けました。1965(昭和40)年、同じ保育所を利用していた親たちで市議会へ請願したり市長と交渉したりして、翌年、第六小学校内に学童クラブができたんです。府中市で第1号です。
 それから10年後、やむにやまれぬ事情で働き続けなくてはならなくなりました。

藤田 もしもよろしければその理由をお話いただけますか?

E・T 実は夫が会社をクビになって再就職しなかったのです。3人の子どももいましたから、私が働かないと食べていけないでしょう。
 夫の失業保険をもらっている間に簿記の3級とりました。
 2,3の会社を変えた後、宮町にある小さな会社に勤めました。それから夜間、学校に通って簿記2級をとって、その会社の経理を担当しました。嫌な仕事ではなかったですよ。嫌だったら続きませんから。経理の一部を担当するのではなく、すべて一人でこなしましたから、やりがいがありました。

藤田 大変でしたでしょう。

E・T 忙しかったですね。帰宅は午後7時。それから食事の支度でしょう。

藤田 イライラしたりすることはなかったのですか?

E・T しましたよ(笑)夫は家にいても、何も手伝ってくれず、「なぜ、私が仕事も家事もすべてやらなくてはならないの!」って夫に言ったことがありますよ。返事はなかったですけど(笑)

藤田 離婚は考えなかったのですか?

E・T ええ、不思議と思わなかったです。夫の親やきょうだいからも大変だねと声をかけられたり離婚をしたらと言われたり。みんな私の味方でしたが経済的援助はなかったですね。

藤田 お子さんに手伝ってもらうことは考えませんでしたか?

E・T あら、そういうこと考えつかなかった(笑)そうよね(笑)

藤田 ごきょうだいの世話や家の手伝いをよくされてきたので、苦にならなかったのではと思います(笑)
 それで、いつ頃までお仕事されていましたか?

E・T 66歳の時なんだか根気が無くなったな~仕事の辞め時だなって自分で思って退職しました。

藤田 仕事を辞めたら、ガックリしませんでしたか?

E・T いいえ嬉しかったわ。だって時間を自由につかえるんですから。

藤田 そこが女性と男性の違いでしょうか(笑)男性は仕事を辞めたとたん体調を崩す人が多いとか。その点、女性は切り替えが上手なのかもしれませんね。
 それで、仕事を辞めて何を始められましたか?

E・T オカリナってご存知?

藤田 はい。素焼きの丸い形などをした笛で、澄んでいて優しい音色ですよね。

E・T ええ、フルートや尺八と違ってすぐに音が出るの。演奏していると、ほんとうに気持ちがいいの。それになんでもそうでしょうが奥が深くて。今、一番したいことなのですが、楽器は練習しなくてはいけないでしょう。その時間が今はないの(笑)

藤田 お忙しいのですね。太極拳の指導をされているとお聞きしましたけれど・・・

E・T ええ、週に2回です。40代後半にテレビのCMで太極拳をしている場面を見て興味を持ちました。それで近くの文化センターに太極拳の教室があったので入会したんですよ。

藤田 太極拳は動作を覚えるのが大変ですよね。それに「気の流れ」をスムーズに行うのは難しいと思うのですが・・・

E・T むずかしい、むすかしいです。最初はね(笑)
 入った教室は半年ごとに試験があって、自分ではできているように思わないのに次のステップにいってしまう。基本が大事。基本をしっかりしなくてはと思い、別の教室に変わりました。もう30年以上も太極拳をしているけれど、他人様に教えているので自分も勉強し続けないといけないって思って、月に4回、神保町まで習いに行ってます。それで、いまでも気づかされることがたくさんありますよ。

藤田 それ以外に何かされてますか?

E・T イスラムの勉強をしています。

藤田 えええ?イスラムですか?

E・T ええ、私はどちらかというとマイナーなものに惹かれるんです(笑)
 今から6年ほど前に府中の生涯学習センターでイスラムについての講演会があって、それを受けたのがきっかけで自主グループを作って今でも月2回集まって勉強しています。
 活動している人のなかには9・11テロ(2001年に起こったアメリカ同時多発テロ)から興味をもったような人もいますが、私は若い頃、アテネ文庫(弘文堂)を愛読していて、そのなかに井筒俊彦さんの「マホメット」という本があって、とても興味をもったのです。けれど、なかなか勉強する機会がなかったので、今とても楽しくって(笑)それも井筒俊彦さんと今ご指導していただいている先生と方向性が違っていて、それも興味深いです。

藤田 よく考えるとイスラムの世界についてはほとんど知らないのが現状ですよね。

E・T そうですね。今のメディアの報道だけではわからない部分がほとんどだと思います。

藤田 お話をきいていて感じるのですが、どこにも力みがなく穏やかな印象をうけるのですが・・・

E・T ありがとう(笑)
 私のモットーは「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」です。自分にできることを精一杯した後は流れるままにしていたら、自然とうまく回転していくって思っています。

藤田 今日は貴重なお話をありがとうございました。私もイスラムに関する本を読んでみたいと思います。


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インタビュー

吉野 昌美さんインタビュー

 今日は晴見町で子育て支援の「おひさまひろば」を主宰している吉野昌実さんです。
 30代前半の4才と2才のお子さんがいるママです。
 ひろばを始めた動機や考えをお話していただきました★


おひさまひろば
開催場所:晴見町会館
開催日時:8・12・3月を除く毎月第2火曜日9:30~11:30

①月1回の子育てひろば
  ・地域の親子が集い、知り合う
  ・地域の子育て支援情報紹介
  ・手遊び・歌・絵本の読みきかせ等
②子育て座談会  
  ・助産師、カウンセラー、臨床心理士、子育てアドバイザー等の専門家を招いての座談会
③子育てをより楽しく、愛しくする企画 
  ・べビーマッサージ、わらべうた、ベビーサイン(赤ちゃんと母親が共通のサインで意思疎通をはかる方法)等
④子育て支援者のための講演会 
  ・現在の子育て事情を知り、支援者のあり方を学ぶ講演会

藤田 お生まれはどちらですか?

吉野 生まれも育ちも小金井です。

藤田 お近くですね。

吉野 ええ。結婚して夫の実家のある府中に住みました。

藤田 ごきょうだいは?

吉野 兄、姉、私、妹です。年子の姉はしっかり者で、私は甘えていて、なんだかほけーっとしていました。9歳離れた妹が生まれるまでは末っ子でしたから(笑)
 厳しい父にいろいろ言われましたが、そんな時は母に助けられました。それに学校で嫌なことがあると何でも母に話しました。母は私と同じように怒ったり、悲しんだりしてくれて、ときにはあまりに怒るので「そんなまでのことではないんだけど」って私がいうくらい(笑)ほんとに母には救われました。

藤田 そうでしたか(笑)お仕事は何かされていましたか?

吉野 あまり人には話したことがないのですが看護師でした。なりたかった訳ではなく高校3年生で目指した進路にことごとく落っこちてしまって・・・。そうしたら母が「今からでも行ける学校があるよ」って看護学校をみつけてくれて。受験したら受かったんです。

藤田 そうなんですか。では掲載できませんね(笑)

吉野 いえ、いいです(笑)
 病院ではオペ(手術)担当の看護師として働きました。オペ担当の看護師は少なくって、入ったばかりから大先輩方と肩を並べての研修があって。当初びっくりしたんですが、それがいい勉強になりました。
 それに婦長には徹底的にしごかれました。ミスをするとレポートを書かされるんですが、書いても書いてもダメだって何度も言われやり直し。でも、私の気持ちが伝われーって書いていくうちにレポート書くのがうまくなって、今では文章を書くの大好きになりました(笑)婦長とは最後までうまくいかなったけれど今になるとあの厳しさがありがたいって思えることもありますね。

藤田 大変だったですね。それで勤めてらしたときに支えてくれた人はいましたか?

吉野 はい、いい先輩がいました。彼女の話は100パーセント聞けたし尊敬してました。
 それに母です。学校の時と同じく愚痴を聞いてもらってました(笑)話を聞いてもらえる人がいることがどんなにありがたく、また必要なことなのかを感じました。

藤田 看護師としてどのくらい勤められたのですか?

吉野 6年間です。結婚して長女が生まれる3ヶ月くらい前まで勤めました。
 その娘がけがをして救急車で運ばれたことがあったんです。私がそばにいたにもかかわらずって思って子育てに神経質になってしまいました。
 そんなとき汐見稔幸先生の講演を聞きました。「日本の子育ては、家族だけでなく近所の人たちみんなでやっていたけれど、ここ30年くらいは母親だけに任されるようになってきた。子育ては母親だけでするものではない。地域で育てるもの」というような内容で、本当に心に響いたんです。

藤田 よかったですね。いい講演者の話は目から鱗、なるほどって気づくことが多いです。

吉野 でも、子どもが一人の時はなんとか過ごせたんですが、二人だと何をやるにも時間がかかり、一人連れの時よりぐっと行動範囲が狭くなりました。公園行っても上の子がトイレなんていうと、ちょっとの間、下の子を見てくれる知り合いがいたらいいのになんて思いました。
 それに、どちらの子どもにもしっかり向き合いたいと思うのに家事に追われて忙しく全然かまってやれなかった。
 そんな頃、ポップコーンっていう市の子育てひろばに参加した時に息子を見てくださる方がいて、娘のお絵描きにゆっくりと付きあえて嬉しかった。私もゆったりでき、子どもたちもそれぞれに楽しめる。私が求めていたのはこれだ!とそのとき思いました。
 その後もいろんな子育て事業に参加して、これなら私もできる。私なりの子育てひろばを作ろうって思いました。それで住んでいる晴見町のママたちに呼びかけて去年の5月に子育てひろば「おひさまひろば」を作ったんです。

藤田 いやいや凄いです。お子さんの年は確か1歳と3歳だったのでは?自分が気づいても、同じ悩みをもっている他の人のためにまではなかなかできないものです。

吉野 いえ、凄くないです(笑)私は地域が大事だと思うんです。生活圏、徒歩や自転車で行ける範囲で助け合っていく必要を感じたし、子育て世代でない人たち、町内会や商店会の人たちとも仲良くできたらって思って。思い立ったら始めなくっちゃって(笑)

藤田 4月14日(火)の午前中に「おひさまひろば」の活動を見学させていただいたのですが、たくさんのお母さんとお子さんが集まってきてましたね。そのとき吉野さんは全体に気を配っていて、話す時はゆっくり丁寧になさっているのが印象的でした。

吉野 ありがとうございます。私はひろば内でさみしい思いをしているママがいないか見ていたんです。せっかく来てくれたママだから誰かと話をしたり、何か欲しい情報をえたり。何か1つでも楽しかったことや良かったことがあったら嬉しいんです。
 ママの心の安定は子どもの心の安定につながりますから。

藤田 これからどういう活動を続けていきたいですか?

吉野 ママたちの要望や意見も取り入れたイベントなども行い、これからもみんなと一緒に「おひさまひろば」を作っていきたいです。
 それから講演者になりたい(笑)

藤田 えええ?そうなんですか?

吉野 汐見先生の話を聞いてから子育ての現状が分かり、やるべきことが見えてきました。
 人の心を動かし、行動まで起こさせてしまう講演者って凄いな~って思っています。私はちょっと人前で話をしたことがあるんですが、そのとき伝わった~って実感があって嬉しかったんです(笑)

藤田 では、今度お話をされる際は教えてください。是非、聴きたいです☆

吉野 いえいえ知っている人がいると緊張しますから。知らない人の中で話をしたいです(笑)

藤田 そうですか(笑)でも、これからもきっといろんな活動をされるでしょう。そんな吉野さんを応援していきたいです!
 今日は本当にありがとうございました★

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インタビュー

A・Mさんインタビュー

今日は10年以上DV(ドメスティック・バイオレンス 配偶者からの暴力)に関してかかわっているA・Mさんに、どういう気持ちで活動されてきたかをインタビューしました。A・Mさんの意向により名前表示をイニシャルとしました。

「女性に対する暴力」に関する調査研究
http://www.gender.go.jp/e-vaw/chousa/index.html
「男女間における暴力に関する調査」平成18年4月は内閣府が配偶者等から暴力を受けた人で現在自立又は自立に向けて生活している人へアンケート調査を実施、回答をえた799人の結果が公表されていますので、参考にご覧ください。

藤田 今日はよろしくお願いいたします。府中にはいつ頃からお住まいですか?

A・M 1959(昭和34)年に両親、兄、弟、妹と杉並から府中に引っ越してきたんです。当時、私は伊勢丹(新宿)で働いていて家から通っていました。その後、結婚して一度笹塚に住んだのですが、すぐに実家の近くに越してきましたから、ずっと府中です。

藤田 さっそくなんですが、DVって夫(元夫や同居の恋人なども含む)からの暴力のことなんですか?
 DV防止法によれば配偶者となっているので、妻の暴力も含まれるのではって思うのですが?
注:DV防止法とは配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律の略2001(平成13)年に施行され、その後何度か改正されている

A・M  DVって私が活動を始めた頃は夫からの暴力が問題でした。それに妻からの暴力は数からいっても少ないと思います。

藤田 2005(平成17)年11~12 月に内閣府で無作為に行った「男女間における暴力に関する調査」では、身体的暴行、心理的攻撃、性的強要のいずれかを何度も受けたことがあると答えた人が女性では10.6%、男性では2.6%ですね。

A・M  DVの被害でいうとダメージの大きなものは女性に圧倒的に多いと思います。

藤田 DVにかかわったきっかけは何だったのでしょうか?

A・M 話が長くなるんですけど、子どもの頃のことが元です。私は中国の北京で生まれて5歳のとき日本に引き揚げてきました。
 私の兄は跡取り息子ということで大事にされていたんです。兄が悪くて喧嘩になっても怒られるのはいつも私。腹が立つから兄に向かっていったら、私は腕力があるでしょう、兄を泣かしてしまって(笑)で、また母に怒られる。「あなたは女なんだから・・・」って言われて。
 理不尽だと思いましたね。なぜ私が悪くないのに女だから我慢しなくちゃならないのかなって。だから、新聞や雑誌で取り上げられる女性問題には関心がありました。
 1968(昭和43)年に結婚したけれど仕事は続けました。でもね、仕事が終わって家に戻ると何もしないで夫が待ってました。それで「早くに帰ったときは炊飯器でご飯を炊いて欲しい。何でもいいから夕食の用意をして欲しい」って夫に言ったら、それから私より遅く帰るようになったのです(笑)

藤田 そうなんですか(笑)

A・M そうです(笑) 夫は母親になんでもしてもらっていたみたいで、下着一枚自分で出そうとしないから、私はたんすに「下着」「靴下」なんて書いた紙を貼り付けて、自分で出してもらうようにしました。一緒に働いているから、家事は分担するのが当然だと思ったんです。
 ずっと働き続けたかったけれど、私の両親の体調が悪くなって面倒をみなくちゃならなかった上に、妊娠して体調をくずしたので仕事は辞めました。
 私は夫婦はちゃんと話し合うべきだと思っていて、夫に話しかけるんですが、夫は「1言うと10返ってくるから怖い」って言うんですよ(笑)
 そうそうDVの活動を始めたのは、娘を溺愛していた夫が進路のことで娘に手をあげたことがあったからです。娘はもう大学生だったのですよ。1度だけなんですが、それが発端です。

藤田 そうだったのですか。それで実際の活動は?

A・M  女性問題で活動をしている多摩女性ネットワーク事務局で知りあった人たちと民間シェルター(DV被害を受けている人を保護する場所)を作ろうということになったのです。
 それで1995(平成7)年11月 渋谷区神宮前に東京ウィメンズプラザが開館されたとき、そこでグループAKKの立ち上げがあり、最初から参加したのです。
 私も何か役に立ちたいと考え、自宅敷地内の使っていない1棟をDV被害者のために開放しようと思いました。でも同じ敷地内でのシェルターは危ないと言われたのでステップハウスとして家を提供したのです。
注:ステップハウスとはシェルターに一時預けられた女性や子どもが自立するための技術などを学ぶ期間に生活する場所のこと
 生活費などの費用はすべてAKKもちでした。私は費用については一切タッチしなかったのですが、その家には多いときで7人くらい住んでいたので水道代だけでもばかにならなかったらしい。
 助成金は申請すれば必ず出るとは限らずそんなに多くはなくて、会費やカンパもなかなか集まらないので、結局そこはクローズすることになったんです。3年間くらいは続けていたのだけれど・・・

藤田 そういう活動を継続していくのはとても大変ですよね。それでその後どうされたのですか?

A・M 1993(平成5)年から続けていた「多摩でDVを考える会」で被害者支援やDVの理解を深める講演会を開くなどの活動をしながら「府中DVを考える会」を立ち上げたんです。そのとき作成したリーフレット(簡易な説明書)が都内の学校教材として利用されました。
 その「府中DVを考える会」で力になってもらった人が2年前に亡くなって、私も体調不良となって今は休止状態です。

藤田 DVで変だなと思うのは、なんで暴力をふるっている夫が平気な顔をしてそのまま生活を続け、被害を受けた妻がこそこそ隠れて生活しなければならないのかということです。

A・M そうですね。今アメリカでは、夫が家を出されるって聞いています。日本でもDV法を改正したりしているけれど、なかなか進んでいませんね。
 それに、暴力を振るわれた女性が自分も悪いからこんなことをされるんだって思う人が多いのです。ひどい目にあわされるようなことはどう考えてもないのに。

藤田 DVは病気なのではって思うのです。だって大事にしなければならないはずの妻を心身ともに痛めつけているんですよね。夫が病気だと自覚して、治療を受ければ治るのでは?

A・M 病気かしらね。私は、妻を自分の所有物のように思っている人がDVをするのだと思います。支配している者が言うことをきかないのが腹が立つ。そうでしょう、他人にはしないんですから。それに外で受けたストレスを弱いものにぶつけているのだと思います。だって自分よりも強いものに暴力を振るわないでしょう。自分が優位で反撃されないから。
 話は変わるんですが、フランスにシェルターの見学したとき聞いたのです。DV被害を受けた女性たちは教会から脱会するそうなんです。それは宗教が男女差別を生んでいるからで、そのことを知って本当に驚きました。

藤田 DVだと分かったときに妻は離婚を考えないのでしょうか?

A・M 自立してやっていけない女性が多いからではないかしら。住まいは自分名義ではないし、家計や貯金を夫が握っていたりして。若い人は蓄えがないのに小さな子どもをかかえていたりすると、とても別れられないのではって思います。
 お金ある人は弁護士たてて慰謝料をもらって別れられるけれど、お金のない人はどうしようもないでしょう。
 だから、私は教育が大事だと思います。小さい頃から相手を尊重することを教えないとって。
 それに、府中には文化センターなどたくさんの施設があるのでDVについての勉強会や講座をもっとたくさんする必要があると思います。実現できるように働きかけていくつもりです。

藤田 今日は貴重なお話をありがとうございました。
これからも体調を整えて頑張っていただきたいと思います。


プロフィール

fujita

Author:fujita
fujita emi

2005年9月府中市女性史編さん実行委員(2008年3月発刊)となったことがきっかけとなって今回のブログを始めることとなった。
府中の女性の仕事や活動をいろいろ紹介していきたい。

趣味
山歩き
芸術鑑賞(美術、映画、観劇)
読書




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